さだまさし『空蝉(うつせみ)』についての考察

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 こんにちは、じぷたです。

 今回は、さだまさしの歌詞について考えたいと思います。

 以前、「さだまさしの歌詞がイイは本当か?→本当です。」という内容の記事を書きました。
 これまで何度かさだまさしをテーマに記事を書いたとがあります。公開後、非公開に戻した記事も含めると4本くらいあると思います。

 

さだまさし『第三者』 別れる寸前の二人の描写 比喩表現がすごい!
この歌におけるラストオーダーとは「思い出美化」に向けた、しゃれた言葉掛けや思い出の振り返りのことを指していると思うのです。舞台である喫茶店、なお且つこの場面で、実際に注文するべきはどんなスイーツであるべきでしょうか。

 

さだまさし『主人公』についての考察 若者たちに向けた熱くストレートなメッセージ 
しらけ世代といわれた当時の若者たちも、過去の若者たち(さらに言うと今の若者たち)と同様に、若さゆえの苦しみや迷いを抱えているわけです。若者に対して、熱くストレートな言葉でメッセージを送るというのが『主人公』のテーマだと思います。

 

さだまさし『案山子』についての考察 「松の木の精」&さだまさしのコラボ説
『案山子』には兄弟の物語が描かれています。それに併せて、故郷から都会へ出た「若者」に対するさだまさしの思いが、「松の木の精」の視点を通して語られています。「兄弟説」に「松の木の精」の視点が付け加えられている、というのが私の解釈です。

 

「さだまさし」の正しい理解のために ~さだまさしのちから~
「さだまさし」への世間の評価が作品の質の高さのわりに評価されていない、ってことです。ファンとしては、もう少し世間的に正しく理解され、音楽としての良さを楽しんでいただきたいと思い、この記事を書くことにしました。さだまさしには黄金期と呼ばれる時期があります。

 

さだまさし『つゆのあとさき』についての考察 歌詩の才能が非凡すぎる  
彼女は別れを切り出た「僕(彼氏)」に対して「幸せでした」「ありがとう」「忘れない」と伝えました。彼女は「僕」との親しい付き合いに対して、満足していたことを伝えています。その後、自分が至らなかったことについて「ごめんなさい」と告げています。

 

 今回はその続編です。

さだまさし『空蝉』の考察 最後まで救われない

 

 今回、歌詩解釈で取り上げるのは『空蝉』という曲。読み方は「うつせみ」です。
 アルバム「夢供養」に収録されていまして、ファンの間では佳曲と言われております。
 
 さだまさしファンの間では「夢供養」というアルバム自体が傑作との評価であり、『空蝉』も内容が深く、歌詩を検証する価値があると考えます。

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改めて歌詞を読んでみる

 まずは歌詩をじっくり読んでみましょう。
 ※以下、青字は引用部分

『空蝉』 作詩・作曲 さだまさし  アルバム「夢供養」に収録 

①名も知らぬ駅の待合室で
②僕の前には年老いた夫婦
③足元に力無く寝そべった
④仔犬だけを現世の道連れに
⑤小さな肩寄せ合って 古新聞からおむすび

⑥灰の中の埋火おこすように
⑦頼りない互いのぬくもり抱いて

⑧昔ずっと昔熱い恋があって
⑨守り通したふたり

⑩いくつもの物語を過ごして
⑪生きて来た今日迄歩いて来た
⑫二人はやがて来るはずの汽車を
⑬息を凝らしじっと待ちつづけている
⑭都会へ行った息子がもう 迎えに来るはずだから

⑮けれど急行が駆け抜けたあと
⑯すまなそうに駅員がこう告げる

⑰もう汽車は来ません
⑱とりあえず今日は来ません
⑲今日の予定は終わりました

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どのような設定か

 ①名も知らなぬ駅の待合室で
 ②僕の前には年老いた夫婦
 歌の舞台は田舎の特急が止ることのないような小さな駅なのです。そこに老夫婦がおり、僕はその夫婦を眺めているところから歌が始まります。

 この老夫婦は、ともに壮健とは言えないようです。
 ⑥灰の中の埋火おこすように
 ⑦頼りない互いのぬくもり抱いて
のところから、高齢の為、身体も気持ちも弱ってきていることが読み取れます。

 ※ちなみに「空蝉」という言葉は万葉集や源氏物語にも出てきます。しかし、この曲とどのように関連させるのが適切なのか、いまいちわかりません。じぷたの古典の知識不足が残念でなりません。

老夫婦は終日息子を待ち続ける

 息子は都会に出て暮らしており、長い間、高齢者二人で暮らしていたのでしょう。
 身体も気持ちも衰えてしまった二人にとって、都会へ出てしまった息子が、自分たちを迎えに来てくれることだけが、唯一の希望の光なのです。

 老夫婦は、駅にやって来ては息子を待つ、という生活を続けています。
 この日も、おむすびをもってきていることから、終日待ち続けるつもりなのでしょう。
 
 夕暮れまで待ち続けたものの、結局息子が駅に降り立つことはありませんでした。最終の急行列車が駅を(急行停車駅ではないから)通過した後、「もう汽車は来ない」と駅員から伝えられます。

ゾクゾクするような寂しさ

 この曲を聴くと、寂しい老後の生活が思い浮かび、ゾクゾクするような暗さを感じてしまいます。 
 特に次のフレーズは、暗に寂しさを感じさせているフレーズであると思います。
 ⑤小さな肩寄せ合って 古新聞からおむすび

 うーん、ゾクゾク。

 どうでも良い話ですが、じぷたの住む地域では、1970年後半の頃までおむすびを新聞に包んでいたように思います。もちろん直接新聞紙に包むわけではなく、アルミホイル等に包んで、それを新聞で包む形です。
 ほどなく新聞紙は贈答品の包み紙にとって代わり、いつしか紙は使われなくなりました。
 新聞紙は保温性がよく、透湿性もあるので、スキー場に行くときのお弁当を包むのにもつかわれていました。何となく思い出しちまったよ。

息子を待ち続けるが・・・

 息子はやがて迎えにくる「はず」ですが、いつ帰ってくるのか日時は全く不透明であり、そのため、終日そして毎日待ち続けることになっていることを匂わせています。

 ⑮けれど急行が駆け抜けたあと
 
 停車する普通便が終了しても、まだ老夫婦は駅で待ち続けています。
列車が終了したかどうかも、そして急行は通過するだけで停車しないことも、老夫婦は「わからなくなっている」または「わかりたくない」という精神状態であり、その点にも悲劇性が感じられます。

 老夫婦にとっては「息子と交わした約束」と「帰ってきて欲しいという願望」が、すでに区別つかなくなっているように思われます。体調的・金銭的・精神的に追い込まれていると推察されます。
 そんなところが、救われなさを感じさせるのだと思います。

 さて、全編「救われなさ」が全開な『空蝉』なわけです。
 老夫婦は全く救われないまま曲が終了します。どこかに希望や光が見いだせないか考えてみたのですが、うまくいきませんでした。

 どなたでも結構ですので、この老夫婦を救う解釈をご存じでしたらご教授いただけると喜びます。

 

 それから本文では触れませんでしが、タイトルの『空蝉』についても整理できていません。
 空蝉には、現世とか抜け殻など様々な意味があるようです。
 タイトルの解釈についても、解釈をお持ちの方がおられましたら、教えていただけるととても喜びます。

 最後はお願いばかりになってしまいました。ごめんなさい。
 それではまた。

コメント

  1. てっちゃん より:

    ひと昔前は空蝉の解釈、考察についてのページがたくさんありましたが、
    今はかなり消えてしまっているようです。
    消えてしまったサイトで私が特に感銘を受けたのが以下のサイトです。
    (サイト自体は消えてますので、キャッシュサイトからになります)

    https://web.archive.org/web/20150408000022/http://www008.upp.so-net.ne.jp/ichishu/sada/sadahihyo.htm

    老夫婦の救いは無いかもしれませんが・・。

  2. てっちゃん より:
  3. […] さだまさし『空蝉』(うつせみ)について こんにちは、じぷたです。  今回は、さだまさしの歌詞について考えたいと思います。  以前、「さだまさしの歌詞がイイは本当か?→本 […]

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